<編集部より>
 本誌はこのほど、リクルートエージェント代表取締役等を経て2014年より第5代Jリーグチェアマンを務める村井満氏にインタビューを行った。キャリアを通して目の前の「人」と「組織」に向き合い続けてきた村井氏だからこそ伝えられる、若い世代に向けたメッセージ、そして社会におけるJリーグの役割とその価値についてお話いただいた(インタビューは2019年10月に実施)。

1.「葛藤ばかり」だった20代

──本日はよろしくお願いします。今回、「キャリア」をテーマに、若い世代の方々にとって生き方のヒントとなるようなお話を伺えればと思っております。さっそくですが、20代のころはどんな時期でしたか。

村井満氏(以下、「村井」)
 私が社会人になって最初に就職したのは、日本リクルートセンター(現:リクルートホールディングス)という会社でした。当時はまだあまり大きな存在でもなくて、ベンチャー企業が少し安定期に入るかどうかという時期、ある意味でニュービジネスであり、ベンチャービジネスであるという企業でした。当時の私自身、ビジネスの世界で真っ当にやっていける自信があまりなくて、当時の人気の業界は銀行や商社だったんですけど、多くの人の中でやっていくには、やや適応能力が低いのではないかなと自分で思っていました。大勢人が集まる時もポツンとしていたりすることもあったり、大学時代は多くの人々が当時はテニスだったりスキーのサークルに集っていたんですけど、まったく真逆の、学ランを着て一升瓶を抱えて酒を飲んでいるような、非常にアナクロ1な世界にいて、数人で京都から萩まで歩いたり、新潟から輪島まで歩いたり、600 キロぐらい中国大陸を歩くようなことをしていました。そういう意味では、流行に乗るというよりは人が行く方と逆の方を行くような、やや天の邪鬼なところもあり、逆に言えば多くの人の中でうまく渡っていく自信がないことの裏返しでもあり。そのような自己認識でしたので、人があまり行かないような会社という観点で就職先にリクルートを選びました。

 最初の仕事は、求人広告を集める営業職です。担当エリアであった神田の街を、アポイントも取らず一軒一軒飛び込みで、「セールスお断り」という看板がいっぱいあるところを訪問しては追い返され、1日100 軒回っても1軒もお茶を飲むことさえもできないような状態が続きました。特に、私の担当エリアは、神田と言っても秋葉原の大通りの裏側の路地のいわゆるジャンクショップのあるあたり、テレビを解体してその真空管とかを軒に並べて売っているような場所でしたから、そんなところを一軒一軒回って「新卒で大学生を採用しませんか」なんて、いま考えるとあり得ないですよね。でも、そのようなことをやっていたわけです。

 そういう意味では、20代前半というのは、社会に出るということに対してすごく自分の中で自信も持てない状況がありながら、外面だけは強気に、でも内面では非常に不安定な状況で、当時のリクルートは本当に勢いのある会社ではありましたが、個人としては仕事の結果もあまり生まれない、葛藤ばかりがあったような、そんな時代だったなというイメージがあります。

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──いまのチェアマンとしての姿からはとても想像もつかないですね。もし、その頃の自分に一言アドバイスをしてあげるとすれば、どういう言葉をかけたいですか。

村井
 当時の経営者から発せられていた言葉で、一字一句正確ではありませんが私が理解してずっと使っているのは、「天才少年ピアニストはいるけれども、天才少年経営者はいない」という言葉です。絵画、書道、音楽などの芸術の世界は、努力に加えて持って生まれた天賦の才能とかセンスとかがあるけれども、経営の世界はそうではなく、全てが後天的であるということです。

 人生を生きて、悩んだり苦しんだりして、人としての痛みや苦しみがわかった延長線上に、顧客は何を欲しがっているか、どういうサービスを期待しているかということがわかるんですね。それがわからなければビジネスの世界では本当の意味では成功できない、とも言えます。先ほどお話したように、自分には能力がなくて真っ当なビジネスの世界には向いていないと思い込んでいたのですが、実はその能力は後天的に身につけられるものだということがわかった。この言葉に出会えたことは、自分の中で背中を押してもらえたような出来事でした。現在、ビジネスの第一線で活躍されている方全てが才能だけでやっておられるわけではないということがいまの自分にはよくわかるので、当時の自分に言えるとすれば、それをもっと早い時期に伝えることができるといいなとは思いますね。


1 時代錯誤。アナクロニズム。

2.自分の「半径10メートル」を大切に

──若い世代の方々がこれから社会人として成長していくために大切なこと、日々取り組んでいくべきことはなんでしょうか。

村井
 あまりにも先のことを考えたり、すごく遠い世界のことを考えたりせず、本当に自分の半径10メートルぐらいのところに集中するだけでいいと思います。あまり先のことを思い悩むよりは、いま目の前の階段を一歩ずつ上がることが実はすごく大事で、「10年後、20年後、自分はどうなっちゃうんだろう」とか、「部長とか社長、経営陣は何を考えているんだろう」ということより、いま、自分の目の前にいる担当のお客様、もしくは自分の家族というような身近な人、そこに全力を尽くすということが極めて大事です。ビジネスの世界というのは、ある意味でマラソンのようでもあります。人生の大半の時間、仕事をして生きていくわけなので、おそらく多くの人が複数の仕事を経験しながら、いろんな職場の人と出会っていくことでしょう。それだけ長い距離を歩んでいく人生なので、その長さからすれば、思い悩んだことが後からすると、「なんであんなつまらないことに」ということが多々あるんですね。ちょっと走り出して疲れたら休んだって構わないと思います。あまり先のことを考え過ぎないようにすることです。

 20代の頃、すごい早さで出世していった同期の仲間がいました。彼らは、当時の我々が普段会えるような若い担当者ではなく、それを飛び越して直接決裁権のある部長や役員にアポイントを入れて仕事を取ってきて、実績を積み上げて私よりもどんどん先に出世していくわけです。私はそれを横目ですごいなと思いながら見ていましたが、それから20年ほど経ち、自分が40歳ぐらいになってみると、不思議な世界がそこには開けていました。当時、決裁権を持っていた役員だった人はもう定年を迎えて誰も残っていません。その代わりに、私が目の前で一緒にお茶を飲みながら夢を語ったり、お互いに愚直に仕事をしていた当時の担当者の人たちが、20年の時を経て決裁権を持つ役員になっていたりして、「この村井ってやつは20年来の付き合いで」ということで大きな仕事をいただけるようになったり、私を引き上げてくれたりしたんですね。私はこうしてJリーグでチェアマンとして仕事をしているわけですけれども、その方々は現在ビジネスの世界の第一線で活躍されている経営者の中にもいて、いま私をすごく助けてくれています。もしあの時に、目の前のものを大事にせずに遠くのものを追っていたら、いまの自分はないなと思います。そういう意味でも、若い方々には、半径10メートルを大事にして欲しいというのは強く思いますね。

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──目先の成果にとらわれて一足飛びに成功を求めたり、足元をおろそかにしてはいけないということですね。

村井
 そういうことですね。私はJリーグの各クラブを訪ねる時に、そのホームタウン2を散策することもあるんですけれども、例えば鹿児島ユナイテッドというクラブの周辺には、西郷隆盛の誕生の地があり、すぐ近くにも大久保利通の生誕の地がありますが、その地域の特徴として、「郷中教育(ごじゅうきょういく)3」というのがあります。学校教育とは異なり、町内会のような集まりの中で、年上の先輩が子どもたちを教育し、また、子どもたち同士でも学びあうというものです。そのような狭いコミュニティから、明治維新を実現するような傑物が次々と生まれたのはおそらくただの偶然ではなくて、やはりそれも地域の人々が半径10メートルをとても大事にしたことによるものではないでしょうか。

 身近な人に教わるということ、これは教育の原点でもあると思います。20代のころ飛び込み営業をしていて、「失礼だお前は」とか「そんなマナーも知らないのか」と叱られたこともありますが、いまの私があるのは、実は学校の先生や上司よりも目の前にいたお客様に育てていただいたおかげだと思います。このJリーグのオフィスの隣には当時私が肩を落として歩いていた神田の町があり、いまでも当時の会社がそのまま残っていたりしますので、そういう風景を見るにつれ「ああ、あの時に世間知らずの自分を育ててくれた場所だな」と、当時のことを思い出しますね。このオフィスで働いている職員は、55のクラブのスタッフと日々関わりながら、そして時にはファン・サポーターから厳しいお声をいただくこともありますけれども、そういうところから人として磨かれ、鍛えられているという気がします。人間、迷った時にネットを検索して自分の歩むべき道を模索したり、色々なビジネススクールなどに学びにいこうとするんですけれども、本当に学ぶべき先生というのは実はすぐ目の前にいたりするんですね。



2 クラブの本拠地(自治体単位)。
3 薩摩藩独自の教育方法で、郷中という区切られたエリアごとに年長者が年少者を指導、教育するという仕組み。西郷隆盛らを輩出した下加治屋町郷中は約70戸といわれる。

3.読書は自分との対話

──ぜひ若い世代の方々におすすめの本、あるいはご愛読書などを教えていただけますか。

村井
 本当に沢山あって選ぶのは難しいのですが、あえて一冊をあげるとしたら『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)でしょうか。坂本龍馬はある意味で組織人としてはやや不安定なところがあって、下級武士ではあるものの、そこで真っ当に勤め上げて立身出世するというタイプよりは、私が半分真っ当な道からドロップアウトしたように、土佐を脱藩していくわけですよね。過去の武士の規範ということからは外れるかもしれませんが、薩摩と長州という対立するもの同士を薩長同盟でつなぐハブになったり、「船中八策」という明治維新の五カ条のご誓文の原点となるようなビジョンを書き上げたと言われていたり、既成概念に囚われずにあるべき姿に向かって飄々として生きていくあの姿というのが、当時学生時代の私にとって羨ましくもありましたね。


──いまの世の中、活字離れとも言われますが、読書とはどういう存在でしょうか。

村井
 読書はある意味で私にとっては自分との対峙、対話ですね。数行読んでは目を閉じて、一杯ビールを飲んであれこれ考えて、また数行読んではあれこれ考えて、自分との対話としてはとても良いと思っています。あとは幽体離脱したかのように自分を外から客観的に見てみたり、例えば自分を江戸の時代に送り込んでみたり、未来に送り込んでみたり、行ったことのない土地に行ってみたり、そういう意味では自分自身を解放していくすごく素敵な扉ですよね。

 その視点でいうと、村上春樹作品などを読んでいると不思議と肩の力が抜けてきて、スーッと自分が別の世界に引き込まれていく感覚になります。村上作品には一貫してユング心理学的な、意識・無意識の境界線のようなテーマが流れていると感じていまして、ある時突然、トンネルの中から別の世界にフッと行ってしまうようなところがありますよね。これはなにも小説の中だけの話ではなく、現実の自分の生活の中でも、そのような感覚を持ち、時に自分を客観視するということがとても大事な時ってあるんですね。「おい、何をやっているんだチェアマン」という視点で、自分で自分を外から見ることによって自分自身が進む道を修正できるような時があります。そのような入り口に立とうと思う時、扉の中に入る手段として村上春樹作品を読んだりすることもありますね。読書の仕方って色々あると思いますけど、私にとってはそんな存在です。

4.判断の基軸を絞る

──2014年にJリーグのチェアマンに就任されるわけですが、スポーツ界ではなく一般のビジネスの世界からの抜擢は初めてのケースでした。初めて経験することばかりという中で、スピード感をもって色々なことを決断し、改革していくことが出来たのはなぜでしょうか。

村井
 判断の基軸となるようなものを絞るということです。何が正解か自分の中でわからなくなることは多々ありますよね。例えば、JリーグはJ1からJ3までありますけれども、J1はメディアに登場したり、常に話題を喚起するようなリーグなんだから、J1により多くの資金を投入すべきだという議論がJ1からは出ますよね。確かにその通りかもしれません。でも一方で、野球や他の競技と違ってJリーグには全国にクラブがあって、地域密着という概念を標榜して、国民の心身の健全な発達のために頑張ろうという理念を持っています。そういう意味では、財政規模は少ないけれども、J3まで裾野が広がっていることでサッカーを全国に普及することができて、国民の関心を大きく喚起しているという側面もあるのだから、J3にも目を向けよう、という視点もあります。J1に多く投資すれば、そこにいるクラブは潤うかもしれませんが、一方で、日本全体に裾野を広げるという意味では、J3まで含めた地域密着に投資することもJリーグの大事な使命だと感じています。一体何に投資するか、何を大事にするかは、自分でも迷う時が多々ありますね。

 そういう時にどうするかというと、私はJリーグの理念を判断基準にしています。プロサッカーを通じて「日本サッカーの水準向上及びサッカーの普及を図る」こと、「豊かなスポーツ文化の振興及び国民の心身の健全な発達に寄与する」こと、「国際社会における交流及び親善に貢献する」ことという理念に沿ったものは進めよう、それと相反することはやめようということを決めています。逆にいうと、理念に沿わないことはやらないようにして、集中しようということです。決断しなければいけないことが多岐に渡ることもありますけれども、突き詰めるとJリーグの理念に則して、それに照らして前に進めることができるかどうかという、極めてシンプルな判断ばかりです。そういう意味では、Jリーグはもう私が就任する前から相当ビジョナリーな組織ですので、判断がしやすくありがたいというか、助かっている面もあります。


5.常に「緊張する方」を選ぶ

──チェアマンの依頼を受けた時はどのようなお気持ちだったのか、迷った時はどのようにして人生の舵をとってこられたのかお聞かせいただけますか。

村井
 最初にお話したように、私は長いこと多くの人々の中で群れるというのがとても苦手だった時期がありました。10人以上の前で自己紹介するとなるともう心臓の鼓動が止まらなくなって、まるでロシアンルーレットの順番待ちをしているかのように、刻々と自分の順番が近づいてくるともうダメ、というように、誰よりも緊張しやすい性格でした。

 新卒で会社に入った時も、色んな部署で「新入社員の村井と申します」ということを挨拶して回るというのが苦痛でしょうがなかったんです。猫を抱いて自己紹介の練習なんかをずいぶんやったりしましたけれども、その時はスラスラ言えるんですよ。あと、国会答弁で自分が喋っている姿を想像しても大丈夫。だけど、結婚式の友人代表スピーチや、人事異動の挨拶はすごく緊張するんですよね。これってなんだろうと考えたときに気づいたのは、簡単に乗り越えられることは緊張しないということです。そして、絶対無理なこと、ありえないことには緊張しません。最初から無理なものでなく、自分ができるかできないか微妙なライン、あるいは大事なものが手に入るか入らないかのギリギリのところだけ緊張するのだなということがだんだんわかってきました。

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 それに気づいたときから、緊張していると思ったら「これと対価に得られるかもしれない大事なものは何なのだろう」ということを無意識に考えるようになってきました。そうなると、極度に緊張しやすい自分という存在を冷静に、第三者の視点から俯瞰で観察することができるようになりました。そうしたら今度は逆に、あえて緊張するほうを選んでみようかと思ったんですね。失敗したりして自己嫌悪になることもありますけれども、緊張する方を選んだことによって素晴らしい人と出会えたりとか、良い話が聞けたりとか、そういう大事なものが手に入り始めたあたりから、「あの時に逃げなくてよかった」と思えて、だんだんとあえて緊張するほう、胸が昂る方を選ぶようになっていきました。チェアマンへの就任を決めたというのも、そういうことです。最初、チェアマンという話を聞いた時は、サッカーの世界の外にいる人間ができるわけがないと、半分冗談だと思っていたんです。それがだんだん、相手が本気で言っているのがわかり始めてから、途端に武者震いというか、畏れというのか、なんとも形容しがたい状態になりましたが、二択であれば緊張する方を選ぶと決めていましたので「やります」とお答えしました。

 就任後も色々なことがありましたが、一つひとつ、すべてが私の中では緊張するほうを選んできたような記憶があります。「DAZN(ダゾーン)」4という全く新しいスタイルでの放映を、リスクをとってスタートするという決断もありました。やはり、スポーツはいつでもどこでも、オリンピックでもラグビーでもそうですけれども、ライブで見たいですよね。ドラマを一緒に戦いたいという思いで自分はスポーツに向き合ってきましたので、その手段として、インターネット配信というものにはものすごく高い関心は持っていました。ただ、どこもやったことがなくて、世界でも初めての取り組みというプレッシャーは確かにあったんですけれども、考えれば考えるほどワクワクした、ドキドキが止まらない感じがあったことを思い出します。


4 英国のパフォーム・グループ(現:DAZN)が2016年に立ち上げた月額制のインターネットによるスポーツライブ配信サービス。コンテンツはサッカーのほか、バスケットや野球、テニスなど多岐にわたる。それまでは衛星放送「スカパー!」が主にJリーグの放映を担っていたが、2017年よりDAZNにその役割を譲った。

6. Jリーグの価値とは

──Jリーグ、そして各クラブの現状とこれからの展望についてお聞かせいただけますか。

村井
 Jリーグは、いまや全国39都道府県にまで裾野を広げ、55クラブが活動しています。地域では、本当にもうかけがえのない存在になりつつありますよね。国際舞台で戦う日本代表がある意味でハリウッドの映画のように華やかな存在で、それに比べればJリーグというのは、もしかしたら自分たちの地域のお祭りのようなものかもしれません。でもそのお祭りは年に1回ではなく隔週であって5、自分たちの生活に溶け込んでいる存在になってきているわけです。

 その価値は社会の公共財といっても良いぐらい非常に大きな存在ですけれども、その社会的な価値を測るためのメジャーがないので、いわゆる企業会計的な価値で測られた場合、Jリーグのクラブというのは簿価ベースでの資産が潤沢にあるわけでもなく、恒常的赤字ではないにせよ、利益をそんなに生まない存在に見えてしまいます。今後は、Jリーグのクラブがいかに社会にとってかけがえのない存在であり、どれだけ大きな価値を持っているかというところを世の中に伝えていく作業が非常に大きなテーマになると思っています。特に、Jリーグの場合は大きなスタジアムが必要ですので、行政等に協力を仰ぎながら、公共交通機関の整備も必要です。スタジアムや練習場の整備に、時には税金を投入するようなこともあるかもしれません。そういう意味では、社会とJリーグの価値を交換できるように、価値の可視化をどこまで進めていくことができるかというのが、非常に大きな課題だと思っています。

 いま、Jリーグは「Jリーグをつかおう!」というキャッチフレーズで、社会との連携を深めていこうとしています。選手が地元の病院や学校を訪ねたりするような「ホームタウン活動」は、すでに55のクラブで年間20,000回を超えるほど取り組んでいて、もはやクラブの方々が自分たちの力だけでこうした活動を2倍、3倍に増やしていくのは非常に難しい状況です。それならば、社会のソーシャルセクターの方々やボランティアの方々、行政の方々や企業の方々が、Jリーグをつかったらどんな社会課題が解決できるのかという視点で、これまでとは逆のアプローチに舵を切っていこうという取り組みをしています。例えば、お年寄りの健康問題とか子供の教育問題というものを、サッカーを使ったらどんなことが解決できるのか。もしくは、まちづくりやコミュニティづくり、国際交流やスポーツツーリズム、産業振興もそうかもしれませんが、Jリーグをハブにしたら何ができるのかということを一緒に考えましょう、ということです。少し我々も肩の力を抜いて、Jリーグの存在を社会に開いていく中で、色々な形でJリーグをもっと活用していただけるようなアプローチを加速していこう、それによってJリーグの価値をもう少し世の中に伝えていくことができたらなと思っています。価値の可視化にあたっては、公認会計士の皆さんの知見・見識を非常に必要としている状況で、Jリーグでも理事に公認会計士の女性6を任用したりしましたし、各クラブでも多くの公認会計士資格を持っている人達が実際に働いていますので、皆さんの力をお借りしながら、Jリーグの価値の見える化に取り組んでいきたいと思っています。


──さらなる価値の向上にはどのように取り組まれたいですか。

村井
 成長戦略のひとつとして、デジタルを本格的に利用していく方向に大きく舵を切っています。DAZNによる視聴もその一環で、従来のテレビ中心の視聴環境から多くの人がスマホでいつでもどこでも見られる視聴環境を用意しました。それからJリーグ公式アプリ「Club J.LEAGUE」をリリースしたほか、デジタルデバイスを活用してのチケット購入やオンラインストアでのグッズ購入といった様々なサービスを便利に利用いただけるように環境整備を行ってきています。今後もこうしたデジタル戦略を推進していきます。

 それから、サッカーの特徴といえば、ワールドカップを頂点とした、もしくはクラブでいえばFIFAクラブワールドカップを頂点として世界とつながっているスポーツであるということですよね。やはり世界のトップレベルの選手を招聘するようなこと、もしくは日本の選手が海外のトップリーグで活躍している姿を見せていくことも必要です。やはり情報感度が高い人達はそういうことに敏感ですので、国際的に活躍できる選手の育成や、国際レベルの選手の招聘にもしっかり力を入れていくことを継続していきたいです。

 あとは、スポーツはひとつの人間のドラマと考えれば、サッカーという人間ドラマに心打たれる人、感動する人とは、つまり野球やラグビーといった他の競技を愛せる人でもあったりします。特にDAZNはあらゆるスポーツが観戦可能で、サッカーだけのメディアではありません。他の競技団体の方々も、実は対立構造をもったライバルでも何でもなくて、同じスポーツを愛する仲間だったりしますので、スポーツ界の横の連携も今後はとても大事になってくると思っています。


5 Jリーグの試合はホーム(本拠地)&アウェイ(敵地)で1試合ずつ開催され、おおむね2週間に1度ホームで試合が行われる。
6 米田惠美理事。本サイトにインタビューを掲載。

7.サッカーは「静脈系」の役割を果たす

──読者には、Jリーグをサポートする立場である上場企業で経理・財務を担っている方々も多くいらっしゃいます。最後に、そういった方々にもメッセージをいただければと思います。

村井
 経営に携わっている方々はよく理解されていると思いますが、健全な企業経営を維持するためには、人間の体で言えば、熱くなったら汗で体を冷やすといったようなバランスが常に効いた状態、こうしたホメオスタシス(恒常性)をすごく大事にしていくことが重要だと思います。それは企業自体のお金の流れもそうですし、そこで働く人たち自身にとってもそうです。

 人間の体には動脈と静脈というものがありますが、動脈で酸素や栄養分をすべての細胞に届ける一方、静脈には体の老廃物を回収する機能がありますよね。企業では、経営者から日々従業員に会議やイントラを介して様々な指示や命令が発信され続けています。こうした「動脈系」の話の中にはある種、従業員からすれば腹落ちしないことや、頭ではわかっているけれども納得できないこともありますよね。人間というのは、それだけでは息が詰まります。自分の中で消化できないモヤモヤした気持ちなどを濾過したりする「静脈系」の機能も必要で、そうでなければ心身のバランスを崩してしまいます。

 スポーツには、その「静脈系」の役割があると思います。サッカーでいえば、自分たちの暮らす地域の名前を90分間大きな声で叫び続け、時には不本意なプレーに容赦ないブーイングを浴びせたりしますけれども、そのように自分の喜怒哀楽の感情表現を解放すること、これは人間としてとても大切なことだと思うんですね。社会では、本能の赴くままに大声で騒いだり叫んだりというのはしづらくなってきています。その中で、スタジアムは、もちろん差別的なものや侮蔑的なことは許されませんが、ある意味、愛するクラブのための叱咤激励は認められているところがあって、本当に大きな声で感情を表現したり喜んだりできる場所です。試合に一喜一憂し、血液が循環して生まれ変わっていくように「また明日から頑張ろう」と思える。私は、こういうことがとても大切なスポーツのもつ社会的役割のひとつだと思っています。

 健全な社会を発展させていくために、スポーツを愛する国であること、スポーツを大切に育てていくことは極めて大切ですよね。そこにはライバル同士、時に戦いがありますけれども、試合が終われば相手をリスペクトするような心を育むこともできますし、芝生の上で親子が触れ合うこともできたりします。こういうスポーツが持っている豊かさを表現することの価値を、ぜひ多くの企業の皆様、特に生態系のバランスをとられているような企業において、健全な企業経営というものを日々財務を通じて見ていらっしゃる方々であれば、必ずや理解していただけるものと思うので、ぜひサポートをお願いしたいと思っています。

──若い世代のみならず、全てのビジネスパーソンにとって生き方のヒントとなるような、示唆に富んだ貴重なお話をたくさん伺えました。本日はお忙しい中ありがとうございました。


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村井 満(むらい・みつる)

1959年埼玉県生まれ。早稲田大学法学部卒。1983年日本リクルートセンター(現リクルートホールディングス)に入社し、営業や人事を担当。本社執行役員兼リクルートエイブリック(現リクルートエージェント)代表取締役社長を経て2011年RGF Hong Kong Limited(香港法人)社長(2013年兼会長)。2008~2013年日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事。2014年1月から第5代Jリーグチェアマン。