<IFRS COLUMN>暖簾に腕押し 第139回 リース(18)
国際会計基準審議会(IASB)前理事 鶯地 隆継
戦艦大和
第一次世界大戦の終了とともに、大戦に勝利した列強各国の間で戦艦の建造競争が始まった。各国の造船技術は飛躍的に向上しており、超弩級の戦艦建造が可能になった。海軍力の優劣が非常に注目される中、各国は国力をあげて大きな戦艦の建造競争に没頭した。しかし、建造競争の激化を受けて、軍縮の動きも始まった。1922年、ワシントンにて1回目の軍縮会議が開かれ、戦艦の建造比率が米英5、日本3と決められた。日本国内ではその建造比率に不満があり、その後の幾度かの軍縮会議で改訂を求めたが、日本は常に英米の6割強に抑え込まれていた。
その後の満州事変と国際連盟離脱を経て、日本は海軍軍縮条約からも離脱することになる。そして、軍縮条約の制約から解き放たれた日本海軍は、長年の夢であった巨大戦艦建造に取り掛かった。それが戦艦大和と戦艦武蔵である。この2つの戦艦には史上最大の46cmの主砲が3基9門も備え付けられた。また、日本海軍の軍艦では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首(バルバス・バウ)を用いて速力向上をはかるなど当時の最新・最高峰の技術が込められた。
しかし戦艦大和が竣工した時期には、巨大戦艦はその役割を終えつつあ...
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