浅草の「おかみさん」冨永照子さんに聞く 下町、義理と人情のまちおこし【マネジメント倶楽部・今月の深読み!】

このコラムは『マネジメント倶楽部』2022年1月号に掲載されました。

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例年の初詣では、全国からの参拝客で溢れかえる浅草・浅草寺。そんな歴史ある下町・浅草に生まれ育ちながらも、「浅草サンバカーニバル」「浅草ニューオリンズフェスティバル」など、新しいものを取り入れたまちおこしを発案してきた冨永照子さんに、まちおこしと人生哲学について聞きました。

── 浅草の「伝説のおかみさん」と言われていますね。どのような環境で育ったのですか?

 生まれも育ちも浅草です。父方の祖父は、米の相場師で、一夜大尽、一夜乞食だから、「貧乏人は持ちつけない金は持っちゃいけない」っていうのが、うちの教訓です。
 母は実家の洋品店を1軒から3軒に増やしたやり手でした。決して人にはケチじゃなくて、すごく気前がよかったの。そんな母親を見て思ったのは、ケチケチせずに、ある程度細かいお金をまくということ。すると、お金もチャンスもまわってきます。商売人の手本だった母からは、「働いてお金を使え。炊事洗濯はお金で人も雇える、お前はお金で買えない大事なことを自分でやりなさい」と言われて育ってきました。だから炊事洗濯はお手伝いさん頼み。店を守る、浅草を守るという、私にしかできないことをやってきました。
 "のれんを守る道"を選んだから、いろんな面倒は私が引き受けたの。旦那の2号さんの面倒もみました。23歳で結婚して、嫁いだ先の和菓子屋は、時代とともに洋菓子におされて、一大決心でそば屋へ業態転換をして、やっと店が盛り返した頃、旦那が芸者と遊んで家に帰ってこなくなりました。挙句に、彼女とスパゲッティ屋を始めて......結局失敗して、旦那が蒸発しちゃってね。ある日、旦那から手紙が送られてきて、中身は東京駅のコインロッカーの鍵。ロッカーを開けたら、山盛りの借用書の束が入っていて、さすがの私も震えましたね。2号さんは私に泣きついてくるし、文句の一つも言えなかった。必死で借金を返して、今は80代。老いたなりの走り方があるから、後継者育成と最後の目標に向けて、勤しんでいるところです。

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(写真:浅草のそば屋「十和田」の外観。)

──浅草というと賑やかなイメージですが、まちおこしの必要があったのですか?

 「浅草おかみさん会」という協同組合を作ったのは1968年。おかみさん会を作った理由は、浅草の女たちの「このままでは大変」という思いからです。
 1960年ごろは、「浅草六区」というと歓楽街で活気があって、中でもとりわけ人が集まったのが映画館でした。今みたいに週に2日もお休みがなかったから、映画が「ハネ」る(=終わる)っていうと、映画館から人の波がどっと出てくるのね。当時はまだ、うちは和菓子屋だったから、お土産にキンツバが飛ぶように売れた。お店は朝7時半から夜11時すぎまで開けていましたよ。
 そんな浅草が、オリンピック後にみるみる衰退したの。松竹株式会社がテレビにおされて、映画館が軒並み閉まっていくじゃない。商店街を歩く人がほとんどいなくなって、井戸端会議を開くと「こんな状況では子どもたちが商売をついでくれない」と。「私たちは幸せに育ったから、浅草に恩返ししよう」という話になって協同組合を作ることにしました。そこで、相談したのが作家の井上ひさしさんでした。井上さんが「商家は"おかみさん"だ」と言うんです。「江戸時代から商家の妻は帳場に立って、使用人たちを指図してきた。だから、浅草の女が立ち上がるなら、『おかみさん会』がぴったり」と名付けてもらいました。でも、「おかみさん会」って、女が立ち上がるってことだから、旦那たちから見たら面白くなかったみたいで、いろいろ苦労もしましたね。
 当時は、浅草寺の三社祭でさえも、御神輿の担ぎ手探しに苦労しました。そんなとき、合羽橋の旦那たち(台東区商連)が、ロンドンに行って2階建てのロンドンバスに乗ったらなかなかよかったという話を聞いたの。そして、「ロンドンも浅草も同じ下町。浅草と上野の間にロンドンバスを走らせたらいいんじゃないの」とおかみさん会のみんなで盛り上がりました。まちおこしの起爆剤になる、神輿の担ぎ手も見つかるかもってね。
 台東区商連の青年部も動いてくれて、中古のロンドンバスを購入したところまではよかったんです。当時の道路交通法では、走行する車の高さは3.8mまでという制限があったのね。2階建てバスは4.3m。思いもよらぬところで法律の壁があって、台東区の旦那衆とおかみさん会の代表メンバーで、運輸大臣(当時)に直談判にいきました。そうしたら大臣は、特別に許可を出してくれました。超法規的措置だそうですよ。今じゃ信じられない話でしょうけど、そういう時代だったのかもしれませんね。2階建てのロンドンバスの反響はすごいものでした。北海道から九州まで、全国から人がきて、雷門前は大パニック。関東運輸局から運行を中止してほしいと要請がきたくらいです。
 苦労の甲斐があって、2階建てバスは大ヒットして、企業とのタイアップという方法があることを学びました。次に企画したのがサンバカーニバルです。初めは阿波踊りも考えたけど、当時、浅草で人気のあった喜劇役者の伴淳(伴淳三郎)さんが「そんなの古い。カーニバルでいこうよ!」って言ったの。すぐにスポンサー企業も見つかって、サンバカーニバルは浅草名物の一つになりました。
 他には、無認可保育園も作りました。1972年に田中角栄さんの『日本列島改造論』が出ると、給料が上がると言われて、東北まで人を探しに行ったりしてね。人材を確保するために、従業員の子どもを預かってみたらという発想で、保育園を作ることにしました。知らないことばかりで苦労したけど、調べていくと助成金があることが分かってね。女には政治なんて関係ないって思っていたけど、税金の使い方や政治のあり方について自分の考えを持つ必要性があると分かった出来事でしたね。

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(写真:浅草のシンボルといえば雷門)

──まちおこしの極意は?

 バスもサンバも浅草とはミスマッチだと思います。でも、まちおこしには、新しいものか、今まで以上のものか、どちらかが必要です。まちおこしはイノベーションを起こさないといけない。もし、何もなかったら、話題を作って平地に乱を起こすつもりでなきゃいけません。まちおこしは一過性ではなく、続けていくことが大事で、それがとても難しいことです。イベントをやるにはお金が必要だし、お金を集める仕掛けづくりに手間がかかる。だから、ニッポンおかみさん会のモットーは、「勇気、元気、やる気、リスク」です。まだまだ日本は男社会だから、勇気がない女のリーダーはやられちゃう、元気がない女は嫌われる、本気でやらない女は笑われてしまいます。多少のリスクも買って出るくらいの精神力があるリーダーが引っ張っていかないとね。私のことを「闘うおかみ」と呼ぶ人もいるけれど、私にとって闘うとは、自分の弱い気持ち、嘆く気持ち、諦める気持ちと闘うこと。自分と闘うってことです。こう思うと、苦労も人生の勉強と思えるようになります。

──老舗そば屋「十和田」を引っ張ってきた「おかみ流」の商売の秘訣は?

 義理と人情と心意気よ!それと人脈です。昔の話だけど、旦那が亡くなった後、旦那の2号さんを援助していたことがあります。その話が花柳界でちょっとした評判になって、興味を持ったホテルニューオータニの社長の大谷米一さんが、わざわざ訪ねてこられたことがありました。その頃は1980年代で、浅草六区の再開発計画があって、スポンサー探しをしていたときでした。大谷さんに、ニューオータニに十和田の模擬店を出してほしいと言われたの。やったことない商売をやるのは気が引けたけど、依頼を断ったらまずいと思って、「やるっきゃない」の精神でお受けしたんです。慣れない商売だったから必死でやったのがよかったのね。大谷さんとの信頼関係ができ上がり、のちに大谷さんの出資によって、六区再開発のシンボルとなった「浅草ROX」が誕生することになりました。結果的に、好き勝手にやっていた旦那のおかけで、妻の私の評判は上がり、大きな人脈にもつながりました。
 ダイエーの当時の会長の中内㓛さんにもとてもお世話なりました。六区再開発でスポンサー巡りをしていたから、浅草の出身で流行りのスーパーを経営していたイトーヨーカ堂の伊藤雅俊社長(当時)を訪ねたんです。ところが、あまり話が通じなくてね。そこで、「東のヨーカ堂がだめなら、西のダイエーだ」ってな変わり身の早さで、中内会長を訪ねました。
 中内会長とは気が合って、その後も、萩本欽一さん率いる「欽ちゃん劇団」のスポンサーになってもらったり、横綱旭富士の後援会長を引き受けてもらったり、HUBというジャズバーを浅草に2人で作ったりもしました。HUB浅草店は、今はジャズ演奏者の登竜門だけど、最初は赤字でしたね。「お客がひとりもいませーん」とスタッフが言うと、すぐに飛んでいって、演奏者にチップ配って、お酒を飲ませてあげて、何がなんでも毎日生演奏が聞ける店を続けてきたのよ。
 ニッポンおかみさん会には、私の仲間がたくさんいますが、今まで一度も「うちの店のものを買って」とお願いしたことはなかったんですよ。いつでも自分が助ける側にまわっていました。でも、コロナで初めて「浅草みやげのお菓子が売れないから買って」と頼んでみました。そしたら、みんながすごい量を買ってくれて、仲見世の店の売り上げがグンと伸びました。人脈なんて意味がないという人もいるようだけど、私は人脈で救われているとしみじみ分かったんです。これまで、日本全国に講演会に行ったけど、気の合った人たちにはお中元お歳暮を毎年出しています。そういうふうに細かいお金を使って、人とつながっていることがとても大切です。

──浅草のこれからについては?

 昔は浅草の遊び方っていったら、雷門から仲見世を歩いて、観音様のところを左に折れたら、花屋敷があってね。花屋敷には動物園もあってね。六区に行くと、見世物小屋があって、映画や演劇を見て帰ったものですよ。ちょっと行けば、色街もあってね。いかがわしくて、好奇心を掻き立てるものが浅草にはありました。
 まちおこしは「清く、正しく、美しく」ではうまくいかないの。それには"色気"も必要です。お座敷に華を添える「振袖さん」とか、新春に催される「若手歌舞伎」とかです。浅草には、観音様の信仰という伝統を核にして、緑と水と太陽はないけど、浅草じゃなきゃできないこと、浅草らしい娯楽を作って、大衆芸能の街にしたいと思っています。落語、漫才、レビュー、コメディ、無声映画、オペラ、ジャズバーまで、いつ来ても何かやっていて、安いお金で芸を見られる、そんな盛場に浅草をしていきたい。これが最後の仕事だと思っています。

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(写真:浅草には"振袖さん"という存在があり、宴の席で歌や舞いを披露してきた。今でも「十和田」を始め、浅草の料亭で気軽に振袖さんとの遊びや下町文化を楽しめる。)

冨永照子(とみなが てるこ)
昭和12年1月3日生まれ。浅草仲見世老舗手打ちそば「十和田」の4代目女将。浅草のまちおこしに尽力し、「2階建てロンドンバス」の導入、「浅草サンバカーニバル」、「浅草ニューオリンズフェスティバル」などの仕掛け人。一般社団法人「ニッポンおかみさん会」会長、協同組合「浅草おかみさん会」理事長、(株)菊水堂代表取締役社長、(株)浅草FURISODE girls代表取締役などを歴任。2015年、「下町人間庶民文化賞」(下町人間の会)受賞。著書に「おかみさんの経済学」(角川書店)、「おかみの凄知恵―生きづらい世の中を駆けるヒント」(TAC出版)などがある。

(文/平井明日菜 写真提供/西岡千史)


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