かつて「最も海に近い蔵」だった老舗酒造に聞く 事業承継の秘訣【マネジメント倶楽部・今月の深読み!】

このコラムは『マネジメント倶楽部』2020年3月号に掲載されました。
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福島県浪江町で、江戸時代から続く造り酒屋を営んできた「鈴木酒造店」は、東日本大震災の津波により酒蔵を失いました。20代で専務兼杜氏として酒造りを一任され、震災当時38歳だった代表取締役・杜氏の鈴木大介さんは、震災後に新天地での酒造りを決断。廃業予定の酒蔵を買い取り、酒造りに勤しみました。いまでは従業員数も増え、売上げも順調です。
 さらに、後継者不在の悩みが尽きない中小企業が多いなかで、すでに息子さんが候補に手を挙げています。若くして家業を継いだ鈴木さんに、事業承継の秘訣についてお話を聞きました。

子どもの頃から家業を手伝っていた
 創業は1830~40年の天保年間。創業以来、港町で漁師たちの大漁を祝う酒として、「磐城壽(いわきことぶき)」は地域の暮らしに溶け込んできました。歴史は古い酒蔵ですが、父親から「家業を継げ」とはっきりと言われたことはありません。自分自身も「継ぐ」と断言した記憶がありませんね。ただ、子どもの頃から酒蔵の側で暮らし、親の背中を見て育ったからでしょうか、自然と酒そのものに興味がありました。
 わたしが小学生の頃は、酒ビンは再利用でした。うちの酒ビンと他社のものを仕分ける作業を手伝いながら、「このお酒が人気なのか。うちの酒はどうかな」と"調査"をしていました。王冠集めにもはまっていました。蓋を「王冠」といいますが、酒蔵ごとに異なる絵柄やマークが描いてあります。地方の小ロットの王冠が手に入ると、もう大興奮でした。それで日本全国地酒マップを作って遊んでいました。
 小学校からの帰り道、家の煙突が見える距離になると、「ああ、今日はラベル貼りの仕事かな、それともビン洗浄かな」と想像しながら道々歩いていましたね。親はわたしと弟が帰る時間帯を計算して、仕事を用意して待っていました。友達と遊びたいとか、ちょっと他の子どもを羨ましく思ったこともありましたが、嫌だなと思うことはありませんでした。やはり、酒造りに興味があったんです。

杜氏から受けた影響
 家業を継ぐことを意識し始めたのは中学生の頃で、ある杜氏さんの存在が大きいです。
※杜氏(とうじ):酒の製造最高責任者。昔は、出資するのはオーナーである蔵元で、酒造りは杜氏に一任するという完全分業がほとんどだったが、現在では蔵元兼杜氏というところが増えている。

 当時のうちの会社の形態は、社員は家族のみで、酒造りの中心を担う人たちは出稼ぎの方でした。冬になると「南部杜氏」と呼ばれる職人が来て、酒を造るんです。ありがたいことに十数年もの間、腕利きの杜氏が来てくれていました。しかし、その評判のよい杜氏が大手の酒蔵に引き抜かれてしまったんです。この出来事に、わたしはショックを受けました。うちのような小さな酒造では、給料を上げ、正社員として雇用するなど、良い条件を提示できず、引き止めることができなかったのです。立場の「弱さ」を感じました。
 それから苦難が始まり、「この人だ」という杜氏に巡り合わないまま、販売量も売上げも落ちました。この出来事をそばで見て、「小さい蔵なりにできることがある。味や質を人に任せるのではなく、自分が杜氏になろう。そうしたら、安定した経営になるのではないか」と、「蔵元杜氏」になることを決意しました。高校を卒業すると上京し、醸造学科がある大学へ進学しました。その後、奈良県の酒蔵で4年間の修行を積み、実家に戻りました。

覚悟を決めたとき
 それまで曖昧だった後継者としての覚悟ですが、後戻りできないと思ったのは、実家に戻ってすぐのことでした。1,500万円ほどの借入れのために、まだ平社員なのに「連帯保証人になれ」と父親から言われたときです。今でこそ少額だと思えますが、当時はまだ20代で若かったので、経営者の一つの判断がどういう影響を及ぼすのかと考え、その責任の重さに平常心ではいられませんでした。
 実は、わたしが戻る前、父は思い切って、高額な精米機を注文しました。その精米機を買うのは大きな会社ばかりで、うちのような小さな会社に卸した前例がないそうで、父はメーカーの営業から「本当に買って大丈夫ですか?」と再三聞かれたとこぼしていました。父には「息子が帰ってくる。いい酒を造るために、最新鋭の精米機を用意しよう」という思いがあったのでしょう。
 こういった父の想いを汲みとる形で、わたしの酒造りがスタートしました。父は「まずいものだけは造るな」ともっともなことをいうだけで、他になんの口出しもしませんでした。
 わたしが小学校低学年の頃までは、一部の酒を「桶売り※」していました。しかし、桶売りの時代が終わったように、時代が変 わり新しい時代が来ることを予感していた父は、あとは若いものに任せてみようといった気持ちが大きかったのでしょう。
※ 桶売り(桶買い):大手酒蔵が小規模の酒蔵で造られた酒を買い取り、自社の商品としてそのまま、または他の酒とブレンドして販売すること。昔は主流の販売形態だったが、現在はほとんど行われていない。
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磐城壽の看板も津波で流されてしまったが、それを復刻した。

 わたしもかつての南部杜氏の一件で、大手と同じことをやっても太刀打ちできないとわかっていましたし、これからの酒造りはオリジナリティだと思っていました。
しかし、「蔵元杜氏」としての酒造りは、父も経験したことがないのでノウハウがなく、「もし酒が売れなかったら会社はどうなるだろうか」という不安で、夜もろくに眠れない日々でした。
 どんなシーンで、どんな人たちと、どんな食べ物と一緒に酒を飲んでもらうかを設計することを、「酒質設計」というのですが、これには本当に悩みました。でも悩んだら、原点回帰。浪江町の日常の風景といえば、海に浮かぶ漁師の船。普段から家で口にしているものといえば、やっぱり貝やイカ、ウニなど海産物を主にした料理。地元の料理に合う酒を追求していくことで、地元の人に「おらほ(われら)の酒」と思ってもらいたいと思いました。
 心がけたのは、酒造りに地域を巻き込むことです。酒の原料の米を地元の農家に作ってもらい、多いときは7割が浪江産になりました。いい米がほしいからだけではなくて、浪江町の人・米・水という地域全体で酒造りをして、地域に恩返しがしたかったからです。そういう思いが通じてか、ひたむきに酒造りをした結果、年に3万本の売上げからスタートして、10年後には5万本まで伸びました。

倒産した酒蔵から負債、銘柄、従業員を継承
 順調にいっていた矢先に起きたのが、東日本大震災です。浪江町は、津波で壊滅的な被害を受けました。家はもちろん蔵も丸ごと流され、友人、酒米を作ってくれていた農家さんなど、本当に多くの人を亡くしました。加えて浪江町は福島第一原発から約7キロという近さであり、21,000人の町民は避難を余儀なくされ、全国に散り散りになりました。
 わたしたちも故郷を離れました。それから考えることは一つでした。「浪江町の人たちを元気づけるため、一刻も早く酒造りを再開したい」ということでした。偶然にも県の試験場に保管していた酵母があり、難を逃れたことだけが希望でした。そのため、酵母を絶やすことなく酒造りが再開できました。
 新天地となったのは、福島県の隣の山形県。縁もゆかりもなかった同県南部の長井市を新たな酒造りの場所として選んだのは、ここに廃業する酒蔵があると知人から聞いたからです。後継者不在、赤字経営に苦しみ、廃業を決めた酒蔵の当時のオーナーに話を聞き、全株式を取得することを決めました。多額の負債を引き受け、他にも従業員2名と、2つの銘柄もろとも引き継ぐことになりました。こうして億を超える借入れをして、「鈴木酒造店長井蔵」と蔵の名称を変更しました。もう無我夢中で2011年の11月から酒の仕込みを始め、その年の冬に「磐城壽」を世に送り出しました。
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社員は全部で11人。うち2人は廃業した酒蔵から引き継いだ。

 翌年からは、同じ境遇にある福島県からの避難者たちと酒造りを開始しました。純米吟醸酒「甦る(よみがえる)」です。買い取った酒造から継いだ銘柄でしたが、造ることを迷っていました。しかし、いわき市から避難していた人が「甦るって、"更に生きる"と書くんだよ。これって僕たち被災者のことじゃないかな。僕が米を作るからやろう!」と背中を押してくれました。こうして、3月11日のリリースを目標に、わたしを含めた被災者を中心に土地を借り、田植え・稲刈りをし、酒の仕込みをしました。
 この「甦る」造りを通して、長井市がわたしのもう一つの故郷となりました。避難当初は一時避難者であり、不安で、どこか「よそ者」気分だったのですが、長井市の方々と土を通して触れ合うようになり、この地での未来を描けるようになりました。
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長井産の酒米「さわのはな」を使用した純米吟醸酒「甦る」。酒米は、福島県からの避難者らが耕す田んぼで栽培された。©越智貴雄

 山形県に来て9年が経ち、小学生だった息子は高校2年生になりました。どうやら、酒造りに関係のある大学に進学を考えているようです。60歳を定年に引退し、あとは息子に任せようと決めていましたが、このほど娘が誕生したので、もう少し働かなくてはいけなくなってしまいました。その分、息子にはゆっくり時間をかけて大切なことを学びとってほしいですね。この先、父親と同じように、彼のやることに口出しをせずにいられるかというと、ちょっとまだ自信がないですね。
 来年には借金の返済が完了する見込みです。これまでの自分の酒造りを振り返って思うのは、やはり酒造りには地域とのつながりが欠かせない要素だということです。これからも地域の農業と密接に関わりながら、地域の持つ文化や魅力を、酒造りを通して発信していきたいです。
 2014年から浪江町で実験的に米の作付けが開始されました。それを復興の礎と受け取り、2016年から浪江町の米と水を原料に「磐城壽ランドマーク」を発売しています。近いうちに山形県の蔵と平行して、浪江町での酒造りも再開させる予定で、いまその準備に入っています。
(文/平井明日菜、写真/上垣喜寛)

株式会社 鈴木酒造店
株式会社 鈴木酒造店
東日本大震災にて全壊。請戸(うけど)本蔵は福島第一原発から約7㎞の距離にあり、現在休業中。主要銘柄の「磐城壽」は長井蔵にて生産中で、2013年の3月から半年間、全日空のファーストクラス・ビジネスクラスで提供された。
〒979−1522 福島県双葉郡浪江町大字請戸字東向10

株式会社 鈴木酒造店長井蔵
震災後の2011年10月、鈴木酒造店が東洋酒造株式会社の全株式を取得し、同年12月に名称変更し、「株式会社鈴木酒造店長井蔵」とした。主要銘柄は東洋酒造から引き継いだ「一生幸福」、復興シンボル酒「甦る」。
〒993−0015 山形県長井市四ツ谷1−2−21


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