2023/08/07 13:00
このコラムは『マネジメント倶楽部』2023年8月号に掲載されました。
(写真:反射炉を蔵屋鳴沢の茶畑から望む。)
2013年に世界文化遺産に登録された富士山に続き、2015年には、静岡県伊豆の国市にある「韮山反射炉」も同遺産に認定されました。江戸時代に、大砲を製造するために建設された反射炉。その横で、大正時代から観光業を営む、伊豆の国市観光協会会長・蔵屋鳴沢6代目代表取締役社長・稲村浩宣さんに、過去を踏まえつつ未来を見据えた長期経営の秘訣についてお話を聞きました。
新茶が採れる5月初旬から6月末、伊豆の国市韮山地域では、かすりの着物に赤いたすき姿の"茶娘"たちに出会うことができます。といっても、本物の農家さんではなく、茶娘に「変身」して茶摘み体験を楽しむ観光客です。富士山と韮山反射炉という世界遺産2つを望む茶畑で茶摘みをし、ピクニック気分でお茶とお弁当が食べられるとあって、「そこでしか味わえない」「インスタ映えする」と人気で、多いときには一日200名の方が参加するほどです。
このプログラムを企画・提供するのが株式会社蔵屋鳴沢です。茶摘みなどの農業体験を提供しつつ、土産物販売、レストラン業、クラフトビールの製造をしています。
(写真:茶畑と稲村社長。後ろに見えるのが反射炉物産館「たんなん」。)
蔵屋鳴沢の創業は江戸時代で、日本酒の造り酒屋でした。ところが、明治時代に入って産業革命が起こり、新たに生糸産業(製糸場)を始めたのですが、その後、生糸の大暴落が起き、本業である造り酒屋も傾き、1909(明治42)年頃に会社は倒産してしまいます。稲村社長の祖父が10歳前後の時だったといいます。その時代を偲ぶように、かつて日本酒を仕込むときに使っていた湧水が、反射炉と土産物屋の間に今でもこんこんと流れています。
「祖父は、倒産を目の当たりにしたからでしょう。質素倹約がモットーで『とにかく元気で生きている間は働け』というのが教えでした。生きていかなくてはならないから、様々な仕事をやったと聞いています」と稲村社長。
会社は倒産しましたが、反射炉周辺の土地は残り、農業を営みます。大正時代になると、反射炉の入口に、ラムネ等の飲料水菓子、土産物を販売する茶店を構えます。反射炉は、江戸時代末期、韮山の代官であった江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもん・ひでたつ)の建言により、品川台場(現在の港区台場)に設置する大砲を作るための鉄の融解炉として建てられました。
ちなみに、韮山の代官は、伊豆をはじめとする相模・武蔵・甲斐・駿河の一部を治め、その9代目であった江川太郎左衛門英龍は、大砲だけでなく、初めて兵糧用のパンを作るなど、新しい技術を積極的に取り入れた偉人としても知られています。
(写真:反射炉前の湧水。江戸時代はこの水で日本酒を仕込んでいた。)
(写真:反射炉と、それを建設した江川太郎左衛門の像。)
反射炉は、1922(大正11)年に国指定の史跡になるのですが、当時はまだ有名な観光地とはお世辞にも言いがたく、現在のように見学料なども取っていませんでした。反射炉の歴史を説明するガイドもいません。そこで、稲村社長の祖父たちが観光客に聞かれるままに、自然とガイドをするようになりました。その他、たびたび伊豆を襲う地震から反射炉を守るための修復や保存活動に、有志の保存会と一緒に取り組んできました。そういった縁で、稲村社長の祖父は、管理者であった村から反射炉の門の鍵を託されることもあったそうです。
反射炉と共に歩んできた蔵屋鳴沢は、1954年、稲村社長の父の時代になると、製茶工場を造り、お茶の製造と販売を開始します。自社の茶園で栽培したお茶を、自分のお店で販売するという効率的な経営でした。1970年代からは茶娘の着物を貸し出す体験プログラムも始めました。
(写真:茶娘の衣装で茶摘み体験。)
また、高度経済成長期真っ只中の折、新しいことをどんどん始めました。その中で成功を収めたのは、バーベキュー施設のオープンです。外食産業が盛んになり始めたばかりの1964年、骨付きの鶏肉を炭火で焼き上げるスタイルの施設を新設すると、たちまち人気になりました。キャンプ場のようなバンガロー風の施設であったため、少額の投資で多くの利益が見込めたといいます。その後は、それらの施設に加えて団体客用の飲食施設や、プールや、マスの釣堀を新設しました。リーズナブルな価格で外食を提供でき、地元の人はもちろん、伊豆にゴルフで訪れた人たちが立ち寄る場所となり、昼も夜も連日満席という状態でした。
そのような景気のよかった1983年、幼いころから跡継ぎとして育てられた稲村社長は、大学を出てすぐに家業に就きます。しかし、次第に周囲にライバルとなる外食産業が増え、その後、バブルが崩壊するとこの事業に陰りが出てきます。
「大型スーパー、ホームセンターが現れて、そこであらかじめ買った食材を持ち込まれるお客様が増えました。客単価が下がり、極端なときは場所の提供だけという薄利な状態になり、"このままではまずい"と思っていました」と稲村社長は当時を振り返ります。
苦難を強いられる中、1996年に代表取締役社長に就任した稲村社長は、新たな挑戦に取りかかります。地ビールの製造です。背景には、1994年の酒税法改正があります。この改正で、ビールの年間最低製造数量が2,000㎘から60㎘に引き下げられ、小規模な事業者もビール製造が可能になりました。これをきっかけに、全国で地ビールブームが訪れます。
稲村社長は、1997年に「反射炉ビヤ」の醸造に踏み切ります。韮山反射炉を訪れる観光客の方々に喜んでもらいたいと、バーベキュー施設を改装し、無煙ロースターを導入した高級レストランに仕立て上げました。醸造所の隣でビールを消費するというレストラン併設型の醸造所の構想は、地ビールという新しいことに取り組みながらも、祖父や父が始めたものを遺産として、引き継ぎつつの挑戦でした。
250名程度の人数が入れる大型のレストランをアピールして、旅行会社のツアーを呼び込みます。反射炉と富士山、そして茶摘み体験、珍しい地ビールにおいしい食事もできるという複合型施設の誕生により、国内はもとより、アジアからの団体のお客様が増えました。
(写真:反射炉を望む施設風景。)
(写真:摘んだ茶葉は持ち帰って天ぷらにしたり、 ウーロン茶に加工できる。)
しかし、すべてが順風満帆だったわけではなく、地ビールの一人当たりの消費が思うように伸びないという課題がありました。大手有名メーカーのビールに慣れていた消費者にとって、地ビール特有の「飲みごたえ」や「重さ」は、すぐには馴染むことができないものでした。消費が増えない、価格が高い、賞味期限が短い。全国的に地ビールブームが終息していくのと同様に、「反射炉ビヤも低迷が続いた」と稲村社長は話します。
転機になったのはクラフトビールブームです。2010年ころから、本物志向のビールが好まれるようになります。その頃、「反射炉ビヤ」のブルワー(醸造長)が交代するタイミングで、稲村社長は悩んだ末に、革新的な若いブルワーを雇う決断をします。
こうして2013年から、味と品質の改良を始めます。若いブルワーとタッグを組み、オーク樽を使用して発酵させてみたり、ワイン酵母を使用して香りや味わいをワインに近づけたビールや、地元有名ラーメン店のラーメンにぴったりなビールを製造したりなど、クラフトビールの世界を広げ、多層のファンの獲得を目指しました。今日ではイギリスやドイツなどの伝統的な製法のビールは残したまま、週に1回のペースで新しいビールを発売しています。
コロナ禍で、観光業は壊滅的な打撃を受けました。蔵屋鳴沢も例外ではなく、団体のツアーがなくなり、順調だった国内外を含む団体観光客が激減しましたが、その穴を埋めたのは、"家呑み"需要の高まりと口コミで、オンラインでのクラフトビールの売れ行きが高まったことでした。コロナ禍が収束し始めた2023年5月、国内最大級のクラフトビールの祭典が4年ぶりに(25回目)、さいたま新都心けやきひろばで開催されると、出店した国内外の48店舗のうち「反射炉ビヤ」の売上げがトップクラスに輝きました。「クラフトビールを造り始めて10年。コロナ禍を経てクラフトビールの楽しみ方が浸透し、その多様性に気づいた人たちが支えてくれたから、ここまで来ることができました」と稲村社長は話します。
(写真:クラフトビールは種類が豊富で、毎週新しいビールを限定リリースしている。)
(写真:太郎左衛門ビール。)
蔵屋鳴沢は、茶店に始まり、観光・農業体験・グルメ・ショッピングができる複合施設に発展してきました。その拡大も反射炉あってのこと。しかし、あくまで史跡であり、何回も訪れるような場所ではありません。だからこそ、反射炉があっての蔵屋鳴沢ではなく、お互いに魅力を高め合う存在であることに重きを置いてきました。
(写真:土産物屋の外観。)
長寿経営の秘訣は、反射炉の保存と知名度を上げるために尽力しつつ、提供するサービスの質を上げ、観光客のニーズに合わせて提供するものを変化させてきたことです。それが結果的にファンやリピーター獲得につながっています。
反射炉が世界文化遺産に登録され、伊豆の小学校だけでなく、県外の学校からも遠足で反射炉に訪れるようになりました。その学生たちが大人になったとき、また行ってみようと思えるような場所を目指しています。
株式会社蔵屋鳴沢 |
(文/平井明日菜 写真/平井明日菜 ・株式会社蔵屋鳴沢提供)
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