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[全文公開] アングル GHQと終戦連絡中央事務局

 税理士 川田 剛

( 103頁)

▶はじめに

「GHQ」といっても、すぐにそれが何かがわかる人が大分少なくなってきた。それは、第二次大戦で、敗戦国となった日本の占領政策を実施するために設けられた、D.マッカーサーをトップとする「連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters;以下単にGHQという。)」の略称である。そこと日本政府との連絡役を担ったのが、外務省の外局として設けられた「終戦連絡中央事務局」である。今回紹介するのは、この事務局が果たした役割、なかでも事務局参与だった白洲次郎が、現憲法制定時に果たした役割についてである。

▶終戦連絡事務局

「終戦連絡中央事務局」は、GHQが日本の占領政策(間接統治)を実施する際の日本政府側の窓口とするため設けられたものである。その設立(1945年8月26日)は、間接統治を目的とするGHQ側の要請に基づくものであった。 (注)

(注)東京本部に加え、京都、横浜、横須賀、札幌、仙台、佐世保、大阪、呉、鹿屋、福岡、松山、名古屋、館山、和歌山の14ケ所に地方事務局が設けられていた。その参与として同年10月30日に就任したのが白洲次郎である。

白洲がそのポストに就いたのは、当時の外務大臣吉田茂の要請によるものだった。 (注)

(注)ちなみに、吉田は、昭和11年から13年まで駐英大使としてロンドンに滞在していた。当時30代だった白洲は、たびたびロンドンを訪れ、そのうち大使館の2階を定宿とするようになったようである。

というのも、白洲夫人(正子)の実家(樺山家)と吉田家とは、父親どうしが友人であり、白洲の結婚式には、吉田の岳友である牧野伸顕の弟(西郷、木戸と並ぶ維新三傑の一人大久保利通の三男)大久保利武が媒酌をつとめるなど、古くから親しい間柄だったためである。

ケンブリッジ大学に留学し、キングズイングリッシュを流ちょうにあやつる白洲は、日本国憲法制定に際し、日本側の意向をGHQに伝える重要な役割をになうこととなる。

▶白洲と日本国憲法との関わり

周知のように、現行憲法の草案は、昭和21年1月4日に公職追放された松本烝治による憲法改正私案(同年1月7日に天皇に奉上)であるが、同日付で、宮沢俊義教授からも2案が憲法調査委員会あてに提出されていた。

▶米国の原案

須藤孝光著「1946 白洲次郎と日本国憲法」によれば、当時、ワシントンでは、SWNCC―228と称される終戦後の日本の統治体制についての改革案が採択されていた。そこでは、大略次のような点が強調されていたとのことである。

①天皇制は廃止、もしくはより民主的な方向に改革する

②統師権は独立させない

③国務大臣は文民(シビリアン)に限る

④議院内閣制の採用

⑤地方自治の強化

⑥基本的人権の保障

そのうえで、これらの改革はあくまで日本国民の自由意志によるべきであり、連合国の強要ととられぬためにも、最高司令官が命令するのは最後の手段とする旨が指示されていた。

▶マッカーサー・ノート

この情報を入手したマッカーサーは、ワシントンから指示を待つことなく、かつ、2月27日に開催が予定されている極東委員会第一回全会議に憲法案の作成を急がせることとした。

同様の動きは日本側でも行われており、2月1日、毎日新聞がスクープした日本側の案では、次のようになっていた(いわゆる英国型モデル)。

第1条 日本国は君主国とする

第2条 天皇は君主にして此の憲法の条規に依り統治権を行ふ

第3条 皇位は皇室典範の定むる所に依り万世一系の皇男子弥之を継承す

第4条 天皇は其の行為に附責に任ずることなし

これをみたマッカーサーは、2月3日、次の様な内容からなる『マッカーサー・ノート(いわゆる3原則)』を部下のホイットニー民政局長に手渡した。

一、天皇は国家元首であり、その地位は世襲される。天皇の職務などに権能の行使は憲法に基づき、憲法の定める国民の基本的意見に従う。

二、国権の発動たる戦争は行わない。日本は紛争解決の手段としての戦争、自国の安全を保障するための手段としての戦争を放棄する。日本の防衛と保護を、現下世界の趨勢となりつつある崇高な理想に委ねる。いかなる陸海空軍も保持せず、交戦権が日本に与えられることもない。

三、封建制度は廃止される。華族たる権利は、現在就労している者以上には及ばない。予算の方式はイギリスの制度を範とする。

この指示を受けたホイットニーは、リンカーン大統領の誕生日である2月12日(実際には一日延期)に日本側と非公式会談を行ない、スタッフに秘密裡に新憲法案の検討を急がせた。

このころ民政局に出入りしていた白洲は、民政局の全てのドアがロックされていたことから、日本側が考えていた内容と大きく異なる案が出てくる可能性があると感じ、その旨を吉田に報告していた。

マッカーサー3原則に基づく案は、条文の形で記されており、2月13日に日本側に提示された。その際、同案の受領証にサインを求められたのも白洲であった。

▶GHQ案の骨子

ちなみに、そこでは、「日本国民が宣言」する形の条文が付されていたうえ、松本案とは大きく異なる次のような内容が含まれていた。

第1条 天皇は国民のシンボルである

第8条 紛争解決の手段としての戦争は放棄する

第13条 華族の権利は現存者をもって廃止する

第41条 国会は選挙で選ばれた300~500名の議員より成る一院制をとる(貴族院の廃止)

日本側はこの案を持ち帰り、検討することとした。 (注)

(注)なお、この会談自体開催記録なし(オフ・レコード)の形となっていた。

▶白洲とホイットニーとのやりとり

翌日、白洲はGHQを訪問したが、そこでホイットニーから、マッカーサー・ノートをベースにした新憲法案について、これは「指令(directive)なのか」と質問している。それに対し、ホイットニーは、「指令」ではないと回答したが、白洲は、たとえ「指令」でないとしても、日本側の案が根本的に否定されている以上、そのように受けとらざるを得ないとして、次のように述べたとされている。

白洲「もちろん、ポツダム宣言(を受け入れ降伏した)の手前もあり、憲法改正が『日本国民の自由に表明せる意見』によるものと みせかけねばならない ことは承知している。」

ホイットニー「みせかけではなく、実際にそうしてもらいたいと思っている。」

白洲「ですが、あなた方は日本案を頭から否定された。」

ホイットニー「ポツダム宣言は、国民の自由意見であれば何でもいいと規定しているわけではない。『民主主義の復活強化と基本的人権の尊重』が不可欠なのに、日本案ではそれが欠けている。」

「極東委員会が乗り出してくれば、ソ連などの意向を無視するわけにいかなくなる。そうなれば、天皇が戦犯として裁かれるのは確実だ。マッカーサー元師は、それを避けるために最善の策をたちあげたのだ。」

白洲「それがシンボルとしての天皇であり戦争放棄というわけか。」

ホイットニー「他に道はない。」

白洲「国民の自由意見をもって(この案を)承認するのは困難かも知れない。」

ホイットニー「民主主義が成熟するのを待っているわけにはいかない。」

その翌日には、松本案からマッカーサー案に移行することの可能性につき再度議論した。しかし、そこでも結論に至らず、GHQ側が頑強であることから、白洲は「日本側の見解を、口頭でなく文書で出してはどうか」と松本、吉田に提案した。

それに対し、両人からは、彼らの名前で出すと「政府の見解」となってしまうので、「白洲の個人名で出した方が良い」ということになり、白洲名で2月15日付の書簡が出されている。この書簡に対し、翌日(2月16日)にホイットニー(W)からの返信が出されているが、そこでもGHQ側(W)の姿勢は変わっていなかった。

その後も双方の意見の差異は埋らず、2月18日、GHQ側(W)は、48時間以内にGHQ案に回答するよう求めた。それに対し、白洲は、「その指示を文書にするよう求めた」が受け入れられず、その旨を日本政府に伝えた。

▶日本側の対応

そこで、日本政府では、さらに48時間の延長を希望した。それに対しGHQ(W)は、日本側からの希望を「日本が自主的に回答するといったも同然だ」と解釈し、それを受け入れた。

この間を利用し、日本政府は、2月21日に弊原首相がGHQを訪れ、マッカーサーに会った。その際GHQ側から示された見解は、2月16日付の白洲文書と同様であった。日本側の回答は、2月22日の午後2時からGHQで出された。その際における日本側の出席者は、松本国務相、吉田外相、白洲の3人、米国側はホイットニー以下5人だった。席上、日本側から、①一院制では参議院側の承認が得られないこと、②改正手続は制度上天皇発議をとらざるを得ないが、それでは前文に示されている「国民が自発的に発議」したものという内容と矛盾すること、③戦争放棄は、憲法本文ではなく前文すべきこと、などの意見が出された。

それに対し、GHQ側からは、①については再度検討するものの、②と③については基本方針であり変更できないとの見解が示された。

▶あとがき

その後も白洲は、日本政府の代理人としてGHQ側と交渉を続けた。その結果、現行のような形で新しい憲法ができあがったのは周知のとおりである。今では白洲次郎の名を知っている人も少なくなってきているが、日本国憲法制定に際し絶対的存在であったGHQに向かって、対等に近い立場で日本側の意向を伝える役に徹した彼の貢献を忘れるべきではないであろう。