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[全文公開] アングル メディチ家と複式簿記

  川田 剛

( 122頁)

はじめに

数年前,仕事の関係で,友人から紹介されたフィレンツェ出身のプライベート・バンカー親子に会う機会があった。

その際,地元の名士でもあるメディチ家の話になり,同家の元別荘がホテルになっているので,宿泊してみてはどうかとすすめられた。

周知のように,メディチ家は,フィレンツェの支配者であったことにとどまらず,歴代のローマ教皇を何人も出している名家である。

しかも,現在広く利用されている複式簿記の発祥地としても知られている。

そこで,今回は,メディチ家と複式簿記に関する話をしてみたい。

メディチ家の由来

金融業で財を成したといわれているメディチ家であるが,その名からも想像されるように,元来は医業又は薬種業を生業としていたのではないかと考えられる。

その後,遅くとも1400年代ごろまでには,両替商として知られるようになっていたようである。

わが国の例をみてもわかるように,当時流通していた金貨や銀貨は,発行者によって,金・銀の含有量が異なっていたことから,それらの間の換算が必要となり,両替商は自然発生的に生じたビジネスである。

当初は,金貨や銀貨に含まれる金・銀の換算手数料のみのビジネスをしていたが,そのうち資金の融通等にも手を付け,本格的な銀行業の元祖として知られるようになった。

ただ,それはあくまで後年のことであり,当初は両替商がメインだった。

しかし,メディチ家が先見性に富んでいたことは,単なる両替商で終わることなく,顧客から預った金貨や銀貨の現物を,別のところに運ばずに,それらの金銀は各支店で保管し,預り証(手形の原型)を発行し,その預り証と引き替えに別の支店でそれに相当する金貨・銀貨を,その地域の金貨等の純度等も勘案したうえで,顧客に現物でわたすという手法を導入したことである (注)

(注)同様のことは,わが国でも「割符」という形で行われていたが,メディチ家のそれは,わが国のそれよりも大規模な形で行われていた。

もうひとつ,メディチ家のやり方で優れていた点は,それらの経理処理を,わが国のような大福帳による単式簿記ではなく,ルカ・パチョーリが発明したとされる複式簿記で行っていたという点である。

周知のように,大福帳のような単式簿記では,売掛金や現金の管理はできても,一定の期間の売上げや利益の状況がどうなっているかとか,ある時点における財産,債務の状況がどのようになっているか等については知ることができない (注)

(注)もっとも,わが国でも,大商人は大福帳に加え,売上帳,仕入帳,売掛帳などを所有し,実質的に複式簿記に近い形のものが使用されていたようである。

ルカ・パチョーリと複式簿記

複式簿記に類似した記帳方式については,いくつかのものがあるようであるが,歴史的に確実なものとされているのは,イタリアの数学者ルカ・パチョーリ(Luca Pacioli)が1494年に数学書「スムマ(Summa)(算術,幾何,比及び比例に関する全集)」において,複式簿記について学術的に説明したものである。

ただ,同書のなかで本人も述べているように,複式簿記は,彼自身の発明によるものではないようである。しかし,この方式が,当時フィレンツェのみならず,ヨーロッパ全域で大きなビジネスを展開していたメディチ家によって採用されたことから,ヨーロッパ全域に広まることとなった。

ちなみに,ワイマール公国の財務大臣だった文豪ゲーテは,学校教育に簿記の授業を義務付けた人物としても知られている。

わが国への導入

わが国では明治6年(1873年)に福澤諭吉による簿記教科書「帳合之法」とそれをベースにした簿記講習所における講義がその始まりといわれている。

あとがき

かつて筆者は,田舎の高校時代に,「簿記」の授業があり,先生が何をいっているのかさっぱりわからなかったという記憶がある。それが,自分の人生の中で,これほどまでに大きな役割を占めることになるとは知るよしもなかった。今から考えれば,実に惜しいチャンスを逃したものである。