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[全文公開] アングル 百聞は一見に如かず

 税理士 川田 剛

( 86頁)

▶はじめに

先般(10月22日~24日)、AOTCA(アジア・オセアニア・タックス・コンサルタント協会)の総会が中国の杭州市(Hangzhou)で開催され参加した。

会議では、BEPSプロジェクト第2の柱の途上国へのインパクト、税務行政とAI化、タックス・アムネスティ、ファミリー・オフィスなどいくつか興味深い報告があった。しかし、何よりびっくりさせられたのは杭州市の豊かさである。

そのような感じを受けたのは筆者だけでなく、今から800年近く前に同地を訪れた鎌倉仏教の始祖栄西や道元、さらにはその後この地を支配した元のクビライ・カーンの命令で徴税官として同地に滞在したマルコ・ポーロにとっても同様だったようである。

▶杭州の沿革

南宋時代からその首都となっていた杭州は日本から栄西や道元などいわゆる鎌倉仏教の祖となる人達が留学した場所として知られている。

そればかりではなく彼らを通じ、わが国に茶や味噌などをもたらした土地としても知られている。

杭州は隋時代に作られた華北と江南を結ぶ大運河の南端に位置し、物資の流通の拠点だったこともあり、それまでの都市(城下町)が城壁に囲まれていたのに対し、解放的な形の街となっていた。

市場経済を中心とした杭州は大いに発達し、マルコ・ポーロの訪問時には人口100万人を超えるまでになっていたという。

▶マルコ・ポーロの目に映った杭州

ちなみに、当時元の首都北京に滞在していたマルコ・ポーロは、クビライの命令で、かつて南宋の首都だった同地を訪問したときの印象について次のように述べている(「マルコ・ポーロ東方見聞録」「マンジ地方の首都この上なく名高いキンセー(杭州)の町について」184頁(一部修正)岩波書店)。

(注)「キンセー(京師、杭州)は、フランス語で という意味である。

「この世界で疑いもなくもっとも豊かなこの街の有様であるが、かつてこの地方を支配していたマンジ(南宋)の王妃は、この地方を支配することとなった元の将軍を通じ、大カーンに手紙を送った。」

「大カーンは、この土地のこの上ない豊かさを知って、この街を略奪破壊しようとした。」

「(マルコ・ポーロは、この書状を大カーンから見せてもらったが、それによれば)キンセーの街はきわめて大きく、1万の塔を備え、大型の船が下を航行できるほどの石造りの橋が1~2万もあった。」

「この街には12種類の職業があり、それぞれの職業には1~2万棟の家々が従事し、各家に20~40人の人間がくらしていた。」

「この街には、さらに、多量の商品を取り扱う豊かな大商人がいた。その数はあまりに多いので、本当のところどれくらいの数にのぼるのか誰も見当がつかないくらいである。」

「これらの家の当主である職人の親方や妻は、自ら働くことをせず王侯のように身だしなみを整えて豊かな生活を送っていた。」

「街の中には周囲20マイルほどの湖(西湖)があり、その周りには、貴人や有力者の美しい宮殿や豊かな家が並んでいる。」

「大カーンは、この街の安寧にたいへん留意している。」

▶税金との関係

その理由として、「東方見聞録」では次のように述べられている。

「なぜなら、この街で作られる商品にかけられる税はたいへんな額にのぼり、もし、自分の目でたしかめなかったら、けっして信じることのできないような莫大な収入を大カーンにもたらしているわけである。」

ちなみに、マルコ・ポーロが大カーンによってこの地に派遣されたのは、マンジ(南宋)の9分の1にあたるこの地方の徴税の監督をするためであった。

同地からあがる税収の主なものは、塩税と当時世界最大の生産量をあげていた砂糖及びふんだんに生産されていた絹で、税率は塩及び砂糖については、取引高の100分の3、絹については100分の10となっていたようである。ここからあがる税収は莫大で、塩税の税収を除いても、大カーンが得る税収の9分の1を占めていた。

「そのため、大カーンはこの街をえらく好まれ、治安に配慮して、住民を安寧のうちに治めている。」

▶あとがき

2015年には同地でG20の会合が開催され、更なる整備が図られている。

なお、AOTCAの会合が開催されたのもG20の会合場所と同じだった。

そのため、周辺は完璧なくらいに整備され、ホテルから人ごみ等は一切目に入らないような近代的な街並みだった。