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[全文公開] アングル 不在税(留守税)

 税理士 川田 剛

( 101頁)

▶はじめに

今回は、大口減少に悩む地方政府にとって耳よりな税(パリの不在税)に関する話をしてみたい。

この税は、1870年(明治3年)プロシアとの戦争に敗れつつあったフランスが、プロシア軍に包囲されたパリで導入しようとしていた税である。

このような税の導入アイデアがあったことは、筆者が友人からいただいた渡正元著「巴里籠城日誌」によってである (注)

(注)その日誌自体は今から150年以上前の1870年(明治3年)3月3日から1871年(明治4年)3月31日までパリに留学生として滞在していた渡正元の日記について、筆者の友人で、渡氏の曽孫でもある横堀恵一氏(元通産官僚で出向等を含め約7年以上パリ滞在)が横浜市立大学の協力等も得ながら現地の状況等を確認したうえで現代語訳したものである。

▶普仏戦争

ナポレオン3世統治下の1870年7月に起こったプロシアとの間の戦争は、わが国では「普仏戦争」と称されているが、フランスでは、一般に「独仏戦争」という名で呼ばれているようである。

当時、鉄血宰相の名で知られたビスマルクはドイツ統一のため、全ドイツが一丸となって戦える外敵を必要としていた。

その第一歩として、1866年に対オーストリア戦争を仕掛け、それに勝利した。

次いで、1868年に発生したスペイン革命を機にスペインに介入したことから、スペイン王妃が亡命していたフランスとの間の対立が表面化し、争いとなった。

当初は、40万人の常備兵をかかえ、クリミア戦争なども経験していたフランス軍が優位に立っていた。しかし、クルップ社製の大砲を備えたプロイセン軍が盛り返し、1870年(明治3年)9月2日には、ナポレオン3世が降伏するに至った。

しかし、その後もフランス側は帝政を廃止して共和国を宣言し、改めてプロイセンに宣戦する意向を明らかにした (注) ことから、プロイセン側では、パリを包囲し圧力をかけることになった。

(注)その原因としてあげられるのは、プロイセン側による多額の賠償金の支払いとアフリカ、東南アジアの仏植民地の割譲要求である。

▶パリの不在税

パリで「不在税」の導入論議が起きたのは、共和国政府発足後の1870年9月17日のことである。

プロイセン軍に包囲されたパリの居住者のなかには、パリを離れようとする者も少なくなかった。

このような緊急事態に対処するため、共和制下の国防府は、パリ在住者に召集令状を発するとともに、次のような命令を出した。

「9月10日以後、公用以外でパリを離れた者の部屋には、その部屋の賃料の額に応じ、次の税金(不在税)を課す。」

・賃料

600フラン~

1000フラン

…月20フラン

1001フラン~

2000フラン

…月50フラン

2001フラン~

3500フラン

…月120フラン

3501フラン~

6000フラン

…月180フラン

6001フラン~

1万フラン

…月240フラン

1万1フラン~

2万フラン

…月300フラン

2万1フラン~

…月500フラン

納税は、月1回、通知後15日以内に行う。この税に不服がある場合、通知受領後15日以内に行わなければならない。

なお、この税は、パリの戒厳令が解除され次第廃止となる。

ちなみに、当時パリに滞在していた本書の筆者(渡氏)は、住民から聞いた話として、「パリでは借家が非常に多く、それ以前にも家屋税という形で家賃料に見合った税が課されていた」としている(同書45頁)。

▶あとがき

このように、パリでは食料品も欠乏するようになったことから、1871年(明治4年)1月からフランスは休戦交渉を行い、1月27日にヴェルサイユ宮殿で降伏文書に署名した。

その後降伏を拒否した一部の者による戦争もあったが失敗し、2月6日全戦で休戦となった。

「巴里籠城日誌」は、この間におけるパリの状況を伝えるものとして貴重な資料であるだけでなく、それまでフランスをモデルとしていた陸軍がドイツ式に移行する契機となった経緯を伝えるものとしても歴史的資料価値のあるものである (注)

(注)1881年3月に大山弥助(巖)、品川弥次郎などの軍事視察団が本書の著者と面会している。