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[全文公開] アングル 最初に富士山に登った外国人

 税理士 川田 剛

( 94頁)

▶はじめに

ユネスコの世界遺産登録などの影響もあり、近年外国人の富士登山が急増している。

かつては、鎖国時代だったこともあり、外国人で日本居住が認められたのは中国人、オランダ人のみであり、かつ、その居住地も長崎の出島に限られていた (注)

(注)ただし、江戸時代初期には(八重洲の名実になった)ヤン・ヨーステンや三浦安針の名で知られるウィリアム・アダムスがわが国での居住を認められている。

また、それ以前にも宣教師などは実質的に居住が認められていた。

また、将軍拝謁のため江戸に向かうことは不可能ではなかったが、それらは数年に一度程度に限られていた。

なお、それらとは別に朝鮮通信使の訪日も認められていたが、居住することは認められておらず、行動経路も限られていた。

しかし、江戸時代末期になるとアジアに目を向けた欧米列強が日本に目を向けるようになった。特に、イギリスは、1840年に清に対しアヘン戦争を仕掛け、南京条約により5港を開港させていた。

そのような流れはわが国にもおよび、清国との間で締結された不平等条約で規定された(香港等の)租界管理や領事式制権などの業務に精通していただけでなく、アロー戦争(1856年)の仕掛人とされるR.オールコック上海領事が1859年に初代駐日総領事に任命され来日した (注)

(注)彼が来日することとなったのは、来日前年(1858年)に、日英修好通商条約が締結されたためである。

ちなみに、同条約では、1859年(安政6年)6月2日(西暦では7月1日)付をもって長崎、神奈川、箱館の3港が開港することとされていた。

ちなみに、彼の最初の仕事は、日英修好通商条約の批准書の交換であった。

幕府側は彼の到着を知らされていなかったものの、批准書自体の交換は1859年6月12日(西暦では7月11日)江戸城においてなされている。

▶R.オールコックの略歴

初代駐日総領事となったR.オールコックは、1809年、ロンドンで医師の息子として生まれた。そのような経緯もあり、当初のキャリアは医師としてスタート、1832年から4年間イギリス軍の軍医としてイベリア半島に赴任し、その後も外務省の要請によりスペイン・ポルトガル等に赴任した。

しかし、このときの過労によりリウマチを患い、両手の親指が動かなくなったことから、外交官に転身した。

当時イギリスはアヘン戦争 (注) で清国を破ったことなどから、彼自身も中国に興味を持ち、1844年に福州、1846年に上海、1859年に広州で領事を務めるなど15年にわたる清国滞在で、中国問題の専門家として知られるようになった。

(注)アヘン戦争は、当時英国領だったインドで生産されていたアヘンを清国に輸出し、多大の利益を得ていたイギリスに対し、それを取り締まろうとした清国政府にイギリスが戦争を仕掛けたことで発生した(1840年)。この戦争は1842年英国の圧勝で終了したが、その際結ばれた南京条約により、香港租借等が行われ、ヨーロッパ列強によるアジア侵略の先がけとなった。

ちなみに、オールコックの上海領事時代には、当時の首相パーマストンに対し、清に武力行使をするよう進言する書簡を送り、それが引き金となってアロー戦争(1856年) (注) が発生したといわれている。

(注)アロー戦争(1856年~1860年)は、イギリス、フランス連合軍と清との間で行われた戦争。アロー号で生じたイギリス国旗の引きおろしを同国に対する侮辱行為であるとするイギリスが、フランスに共同出兵を持ちかけた。第2次アヘン戦争とも称されている。清国は、国内で「太平天国の乱」などをかかえていたこともあり、いったん成立した和解(天津条約)が無効となったことから、清国は、1860年、開港場の追加(11港)やキリスト教の自由化などを内容とした「北京条約」を受け入れた。

この条約により、清国の半植民地化がさらに促進された。

なお、この時期、ロシアも、露清北京条約により、不凍港であるウラジオストク(ロシア語で「東方を支配せよ」の意味)を獲得している。

開国後最初の駐日総領事(後に公使)として赴任した外交団の仲間には、ハリス(米国)、ロシュ(フランス)等がいるが、いずれも彼より早く離日している。

それに対し、オールコックは、新規開港地である函館を訪問したり、香港で起きたモース事件の後処理のため香港に滞在していた時(1861年4月下旬)には、ロシア軍が対馬に上陸し、同地を租借したいと申し出たことを聞きつけると、イギリスの軍艦2隻を派遣してそれを阻止するなど活発な活動を続けていた。

彼の対日姿勢には強硬な面と親日的な面の両面がみられる。

前者の例としては、幕府側が新潟、兵庫、江戸、大阪の開港延期を求めたのに対し、当初これを拒否している(1862年)。

また、1864年には、日本の攘夷的傾向が強くなってきていた状況を打破すべく、四国連合艦隊による「下関砲撃事件(1864年)」でも中心的役割を果たしている。

その結果、これを認めなかった当時の英国外務大臣(J.ラッセル)により解任され、帰国命令が出されたことから離任している。

▶オールコックによる日本の印象(特に税との関連で)

オールコックは、着任直後に行った地方旅行の際受けた当時の日本の農村、特に税との関係について次のような印象を受けたとしている。

「日本の民衆がどのような税を経験してきたかはともかく、全体的にそれほど過酷ではないように思える。また、内陸への旅の間目にしてきた農民たちの幸せそうな光景を思い返すと、約2世紀前にケンペルが日本について記したことは (注) 、あながち間違いとは思えなかった。」

「平和で、実り豊かに満ち足りており、丁寧かつ完璧に耕され維持された農地と、装飾的な木々にあふれたこの国は、イングランドでも敵わない。」

(注)E.ケンペルは、5代将軍綱吉の時代に長崎出島のオランダ商館に勤務していた医師(実際はドイツ人)で、彼の書いた「日本誌(ドイツ語版とフランス語版あり)」はゲーテやカント、ヴォルテール、モンテスキューなど、ヨーロッパの知識人にも広く読まれていたので、オールコックも来日前に読んでいたものと思われる。

ちなみに、そこでは、江戸や長崎など当時の日本は治安も良く、庶民が楽しい生活をしている様子が描かれている。

なお、同書では、当時既に絶滅したと考えられ「生きた化石」と称されていたイチョウの木が日本に存在していたことについても記されている。

▶富士登山

オールコックが、外国人として初めて富士山に登ったのは、万延元年7月27日(西暦1860年9月11日)のことである。

ちなみに、この記録は、富士山の5合目登山口に設けられている記念碑として残されている。

その際、愛犬を連れて山頂まで登ったのか否かは不明であるが、同犬は、その帰路に訪問した熱海で大湯間欠泉の熱湯を浴び死亡している。そしてこのことは同地(熱海)の記念碑にもその旨が記されているので、多分同行登山をしていたのではなかろうかと思われる。