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[全文公開] アングル マルコ・ポーロの聞いた日本とモンゴル側からみた元寇

 税理士 川田 剛

( 98頁)

▶はじめに

以前この欄で、マルコ・ポーロがクビライ・カーンからの指令(要望)で、中国南部(旧南宋)の杭州に国税局長(徴税官)として派遣されたという話をした。

「東方見聞録」の中で、それ(第7章北京から泉州へ)に続いて出てくるのが、日本(ジパング又はサバング)に関する章(第8章「日本とシンの海」である。

そこで、今回はこれに関する話について紹介する。

▶マルコ・ポーロの聞いた日本に関する話

マルコ・ポーロは、「信頼できる人から聞いた話」として、日本は大陸から1500マイル(約2400㎞)離れた東方の島で、大洋の中にある大きな島であり、「住民は肌の色が白く、礼儀正しい」としている。

また、偶像(川田注:仏像か?)崇拝者であるともしている。

そのうえで、「島では金がたくさん見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし、大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどいない。そのため、島は膨大な量の金で溢れており、君主の宮殿は、キリスト教団の教会が鉛で屋根を葺くように、全ての屋根が金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も、厚さが2ドワ(約4㎝)もある金でおおわれ、窓もまた同様である」としている。

ちなみに、「黄金の島ジパング」伝説はここから始まるとされている。

(注)なお、「ジパング」という表現は中国語で、これをふまえ、マルコ・ポーロの母国ヴェネツィアでも同じ表現となっている。しかし、マルコ・ポーロが口述した記録をまとめた本では、「サバング又はシパング」という名で呼ばれている。

▶元寇との関係

「黄金の国ジパング」のうわさは、当然のことながらモンゴル帝国の王であるクビライ・カーンの下にも届いていた。

マルコ・ポーロは、この点について次のように述べている。

「カーンは、この島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、2人の将軍に多数の船と歩兵をつけて派遣した」。

いわゆる元寇である。

「2人の将軍はともに賢く、勇敢だった。彼らはサルコン(泉州)と以前この欄で紹介したキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町を奪うことはできなかった。」

(川田注:上陸して一部を占領したと書かれているので、ここで述べられているのは、第1回の元寇、いわゆる文永の役のことと思われる。)

また、元軍が直面した嵐についての記述では、次のように述べられている。

「さて、そこで不幸が彼らを襲う。凄まじい北風が吹いて、この島を荒らしまわった。島には港というものがなく、風はきわめて強かったので、大カーンの船団はひとたまりもなかった。彼らはこのまま留まれば船がすべて失われてしまうと考え島を離れた。

……中略……軍隊の大部分は滅び、わずか3万人ほどが生き残った。彼らには食料も援軍もなく、もはや命はないものと諦めざるを得なかった。

……中略……1人の将軍は嵐を免れたが(川田注:2人の将軍は仲が悪かったため)、小島に残された同僚の将軍の援護に赴こうとしなかった……中略……これは1268年に起こったことである」(川田注:この点はマルコ・ポーロの記憶または口述誤りだと思われる。ちなみに、「文永の役」は1274年、「弘安の役」は1281年のことである。)

「……中略……大カーンは逃げ帰った将軍の首をはねた。もう一方の将軍に対しても、武人にあるまじき振る舞いをしたとして、処刑の命令を出した」。

「この島(サバング:日本)の住民も、インドの人達と同様に、敵を捕虜としてその身代金が支払われない時には、捕虜を捕まえた者は友人や親類を集め、皆で捕虜を殺し、その肉を焼いて食べてしまう。」

これらの話の中には、真実をふまえたものもあるが、ここで記述されているように誤解に基づいたものも少なくない。

▶税金との関係

幸いなことに、2度にわたる元寇を斥けた日本だったが、それらの功績に報いるための恩賞が十分に与えられなかったため、鎌倉幕府の根幹となっていた御恩と奉公のバランスが崩れ、それが鎌倉幕府体制の弱体化につながったことは周知のとおりである。

同様のことは、当時世界最大の帝国だった元のサイドでも生じている。例えば、クビライ・カーンはその後も王として第3回目の日本遠征を試みたが、実現するに至らず、まもなく衰退していく。

マルコ・ポーロの略歴

1254年

ヴェネツィア生まれ

①父親はその後まもなくペルシャ経由でモンゴル帝国王のクビライ・カーンに仕える。

②クビライ・カーンはラテン人に会うのは初めてということもあり大いに歓待された。

③その際、2人からローマ教皇の話を聞き、教皇の下に自分の臣下を連れて手紙を渡してくれるよう依頼された。

④帰国時に妻がすでに死去していたことから、マルコを連れてクビライの下に戻ることを決意。

1271年

父(ニコロ)と叔父(マファロ)とともにヴェネツィアから元に向けて出発。

元(モンゴル帝国)のクビライ・カーンからローマ教皇への手紙を預かり、それを届けるために一時帰国していた。

1274年末

~1275年初ごろ 

マルコらモンゴル帝国の首都(北京)に到着(21才ごろ)

この後のことは、大略次のような形で東方見聞録に記されている。

  • 父及び叔父がローマ教皇への使節の役割を無事終えて北京に戻りつつあることを知ったカーンは迎えの使者を出し、40日間彼らをガードさせたこと
  • 到着時にはカーン主催の大宴会が催されたこと
  • マルコを閲見したカーンは、父ニコロが「これは自分の息子で、自分と同じく王の臣下です」という紹介等もあって、マルコを大変気に入り、彼に語学や歴史、馬術等を学ばせた。
  • この間、マルコは、カーンから中国南部(泉州、杭州)インド等にたびたび派遣され、そのたびにカーンにそれぞれの土地の特徴等について報告し、高い評価を得ていた。

    このようなこともあり、北京滞在は17年に及び、他の臣下からやっかみを受けるほどカーンから愛されていた。

    1280年代末ごろ

    父及び叔父の強い希望もあり、故郷に帰りたいとの希望を再三カーンに願い出たがなかなか許されなかった。

    1290年ごろ

    ようやくカーンから帰郷の許しが出た。カーンは彼らのために14隻の船と2年分の食料を用意し、出発。しかし、中途で嵐に遭い、乗組員400人のほとんどが死亡(生存者は17人)。その後、マルコ達は自力で旅を続けた

    1295年

    ヴェネツィア到着。