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[全文公開] 書評 井上 康一 著 『租税条約と国内税法―プリザベーション条項の歴史と意義』(2025年12月24日発行/東京大学出版会)

東京大学 教授 増井 良啓

( 83頁)

本書は、二兎を追う書物である。

一羽目は、プリザベーション条項が確認規定である、という定説を覆すことだ。プリザベーション条項とは、「租税条約は国内租税法上の恩典を制限しない」という趣旨の規定だ。本書から感銘を受けるのは、疑問に対して正面から向き合い、かつての自説を乗り越えようとする知的誠実さだ。2011年の共著(井上康一・仲谷栄一郎『租税条約と国内税法の交錯(第2版)』(2011、商事法務))において、井上弁護士はプリザベーション条項を確認規定ととらえた。この共著の真骨頂は個別条約規定を素材とする各論の検討にあり、私も高く評価してきた。他方で、プリザベーション条項の位置づけについては、いわば消極要件の不充足を念のためにチェックする、という意味をもつにとどまるというのが、2011年の共著を書評したおりに私が感じたことだった(増井良啓「書評」国際税務31巻11号111頁)。これに対し、本書は、プリザベーション原則は幻であり、プリザベーション条項が確認規定か創設規定かを議論する実益自体がない、という立場に到達している。井上弁護士はかつての自説を乗り越えたのである。

二羽目は、租税条約解釈論を再構築することだ。本書は、上書き特定型と違反審査型の二類型を提示し、解釈論の新たな境地を切り拓く。これは、松田浩道教授の問題提起(松田浩道『国際法と憲法秩序―国際規範の実施権限』(2020、東京大学出版会))を真摯に受け止めて、裁判例の悉皆的検討を行うなど、深く検討を重ねた成果だ。私はかねてより松田説の租税条約解釈論上の意義に注目してきた一人であり、この方向への井上弁護士の知的前進を慶賀したい。今後、対話の進展と各論の充実が楽しみだ。

このように、本書には、井上弁護士が二兎を追う過程が凝縮されている。国際課税に関心のある方には、ぜひ手にとってほしいと思う。特に第1章は、徹底した史料探索によりプリザベーション条項の起源を突き止めるもので、良質の推理小説の趣がある。

なお、本書カバー写真は、ブールデルの「弓をひくヘラクレス」。剛腕が二兎を射止める瞬間をとらえる。

(評者:東京大学教授 増井良啓)